死から見られた生

─三島由紀夫

 

「人生においては、詩を愛するよりも、現実を愛することから始めなければならぬ。もとより現実は常に人を裏ぎるものである。しかし、現実の幸福を幸福とし、不幸を不幸とする。即物的な態度はともかく厳粛なものだ。詩的態度は不遜であり、空虚である。物自体が詩であるときに、初めて詩のイノチがありうる」。

坂口安吾『恋愛論』

 

 三島由紀夫は、一九七〇年十一月二十五日、市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部にて割腹自殺する。たんなる自殺として片づけられないこのアナクロニズムな自決に関してはさまざまな解釈がすでになされているが、多くのものは生前の三島自身の解釈をなぞっているにすぎない。三島の自決は、たんなる狂気の結果でも、天皇を守るためでも、自衛隊の決起を促すことに失敗したからでも、ナショナリズムを鼓舞するためでも、日本をほめ殺すためでも、昭和の精神に殉ずるためでも、美学の完結のためでもないと考えるべきである。三島はこの自決に関して、アイロニーを用いることによって、そうした周到な解釈の罠をしかけていった。アイロニーの逃げ道を封じる方法は、アイロニーをまさに字義通り読むことである。それはまず字句に従って読み、そこでとどまることなく、その上で、アイロニーが自己韜晦のために選びとられる手段である以上、彼のうちの何がその手段を選ばせしめたのか、すなわちアイロニーという手段を自己韜晦として使うことによって逆にあらわれでてくる自己の解釈へと進めていくことである。読み手は書き手に対して他者として振る舞って構わないのだ。と言うよりも、読み手は書き手にとって他者なのである。従って、むしろ、自決の際の、まるで兵隊ごっこをしている子供のするような自己劇化的な身構えと体をなしていない「檄」文と陳腐なまでの「辞世」の歌は、三島にとって、根源的なものであるように思われる。

 三島の人生はあの自決によって閉じたが、三島の作品そのものは、次のように終わっている。

 私と園子はほとんど同時に腕時計を見た。

−−時刻だった。私は立上るとき、もう一度日向の椅子のほうをぬすみ見た。一団は踊りに行ったとみえ、空っぽの椅子が照りつく日差のなかに置かれ、卓の上にぼれている何かの飲物が、ぎらぎらと凄まじい反射をあげた。

(『仮面の告白』)

 ポケットをさぐると、小刀と半巾に包んだカルチモンの瓶とが出て来た。それを谷底めがけて投げすてた。

 別のポケットの煙草が手に触れた。私は煙草を喫んだ。一ト仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った。

(『金閣寺』)

 あの晩から一週間後、隆一が私にやっと再開した連絡の手段は、まことに一方的な連絡手段、すなわち電報だった。それには簡単に、ただこう記されていた。

『オンガ クオコル」オンガ クタユルコトナシ」リュウイチ』。

(『音楽』)

 麗子は咽喉元へ刃先をあてた。一つ突いた。浅かった。頭がひどく熱して来て、手がめちゃくちゃに動いた。刃を横に強く引く。口の中に温かいものが迸り、口先は吹き上げる血の幻で真赤になった。彼女は力を得て、刃先を強く咽喉の奥へ刺し通した。

(『憂国』)

 他の作品もこうした完結によって、すなわち大袈裟で不明確な比喩や不明瞭な説明によって終わるのである。これらの完結は真に完結と言うことは困難である。「私は立上るとき、もう一度日向の椅子のほうをぬすみ見た」とはいったいどういうことなのか。「一ト仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った」とはいったいどういうことなのか。「隆一が私にやっと再開した連絡の手段は、まことに一方的な連絡手段すなわち電報だった」とはいったいどういうことなのか。「口先は吹き上げる血の幻で真赤になった。彼女は力を得て」とはいったいどういうことなのか。およそこれらの表現は常識的な思考からほど遠いだけでなく、歌謡曲のタイトルと歌詞や夕刊紙、週刊誌の見出し、それに記事と同様に、意味不明で、ただなんとなくインパクトの強い言葉を並べて見せた程度にすぎない。つまり、三島の作品の場合、比喩が何かをシンボリックに、あるいはメタフォリカルに指し示すこともなく、自己完結するためだけに書かれ、完結が読み手に何の示唆も与えないのである。

 漱石の作品の完結と比較してみると、三島のものが真にそれと見なせないことが明瞭になってくる。

 私は私の過去を善悪ともに他の参考に供する積もりです。然し妻だけはたった一人の例外だと承知して下さい。私は妻には何も知らせたくないのです。妻が己の過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存して置いて遣りたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、凡てを腹の中にしまって置いて下さい」。

(『こころ』)

 −−自分が坑夫に就ての経験はこれだけである。そうしてみんな事実である。その証拠には小説になっていないんでも分る。

(『坑夫』)

 午後三重吉から返事が来た。文鳥は可愛想な事を致しましたとあるばかりで家人が悪いとも残酷だとも一向書いてなかった。

(『文鳥』)

「そこでともかくも阿蘇へ登ろう」

「うん、ともかくも阿蘇へ登るがよかろう」

 二人の頭の上では二百十一日の阿蘇が轟々と百年の不平を限りなき碧空に吐き出している。

(『二百十日』)

 これらの終りからは読み手がこの先を想像できるようになっている。漱石の作品は一様にさりげないが、読み手の視線を前提にし、コミュニケイティヴな完結をしており、読み手に想像する余地を残しているのである。一方、三島の場合、完結が書き手の私的次元にのみ所属している。読み手は、作品を是認しようとすれば、ただ彼の言葉に絶対服従するほかない。つまり、漱石においては読み手の存在が十分考慮されているのに対して、三島においては読み手の存在がほとんど考慮されていないのである。

 三島が先の引用のような読み手を無視した完結を書いてしまうのは、書くということ以上に、読むことに関する認識から派生している。作品の言葉の使い方は他の書き手のものに見られる言葉の読みにかかわっているのであり、彼の読む姿勢が他者の読む行為を規定しているのである。

 三島は、読むことについて、次のように述べている。

 批評する側の知的満足には、創造というまともな野暮な営為に対する、皮肉な微笑みが、いつまでもつきまとうことは避けられない。この世には理想主義的知性などというものはないのだ。あらゆる理想主義には土方的なものがあり、あらゆる仕事は理想主義の影を伴う。そして批評的知性には、本来土方の法被は似つかわしくないものであるが、批評の仕事がひとたびこの法被をまとうと、営々孜々として破壊作業に従事するか、それとも対象から遠く隔たって天空高く高桜を建てるかしてしまうのである。

(『裸体と衣装』)

 若い時代の心の伴侶としては、友だちと書物とがある。しかし、友だちは生き身のからだを持っていて、たえず変わっていく。ある一時期の感激も時とともにさめ、また別の感激が生まれてくる。書物もある意味ではそのようなものである。少年期の一時期に強烈な印象を受け、影響を受けた本も、何年か後に読んでみると、感興は色あせ、あたかも死骸のように見える場合もないではない。しかし、友だちと書物との一番の差は、友だち自身は変わるが書物自体は変わらないということである。それはたとえ本多なの位置済みに見捨てられても、それ自身の生命と思想を埃だらけになって、がんこに守っている。われわれはそれに近づくか、遠ざかるか、自分の態度決定によってその書物を変化させていくことができるだけである。

(『葉隠入門』)

 批評が「営々孜々として破壊作業に従事するか、それとも対象から遠く隔たって天空高く高桜を建てるかしてしまう」とか、本に「近づくか、遠ざかるか、自分の態度決定によってその書物を変化させていくことができるだけである」と語る三島において、読むことはたんなる自己確認として了解されている。こうしたシニカルな視点は読むことを自意識の問題としてとらえているにすぎない。このような自意識による変形的な読みは少年時代においてすでに見られる。そのころ、三島は書物から現実を学ぶという倒錯を行っていた。『仮面の告白』によると、「私は多くの小説を事こまかに研究し、私の年齢の人間がどのように人生を感じ、どのように自分自身に話しかけるかを調査した」。しかし、「私には結局何一つわかっていなかった」と三島自身もそれが空虚なものしか与えてはくれないことを自覚するだけに終わってしまうが、それ以上進もうとはしなかった。まわりの少年たちが異性に関心があるのに対して、彼は自分が同性に関心があるという差異にその空虚さを還元してしまったのである。「私以外の少年たちの夜毎の夢を、きのうちらと街角で見た女たちが一人一人裸になって歩きまわることが。少年たちの夢に女の乳房が夜の海から浮び上る美しい水母のように何度となく浮び上ることが。女たちの貴い部分がその濡れた唇をひらいて、幾十回幾百回幾千回とはてしなく、シレエヌの歌をうたいつづけることが。……」。しかし、同性愛的傾向は、男女問わず、青少年期にはよくあることだが、それは愛というよりは憧れに近い。空しさは根こぎ感と呼ばれる青少年期特有の心理状態であり、同性愛と異性愛の差異によって解消することなどない。三島の場合も、同性に対する関心は、いわゆる雄々しさに惹かれていることから見ても、明らかに憧憬である。三島由紀夫は、彼の思いこみとは逆に、ごくごくあたり前な普通の少年なのだ。彼に欠けているのは何を考えているかではなく、いかに考えているかという問いである。同様に、批評だけでなく真に読むことにおいては、何を読むかということ以上にいかに読むかということが問題になる。読む動機や意図がいかなるものであったとしても、それがどれだけ独自で固有なものでありながらも、言葉によって書かれたものを通したとき、それは他者と共有したものとなるのだ。読むことは書かれた言葉と格闘しなければならなくなるのである。従って、それは、技術的と言うよりは、倫理的な色彩を帯びている。自己完結を逃れるのはそうした倫理的な視点から読むことである。

 人を倫理的態度にするのは自己規定できないという愕然とした思いとともにある、言い換えるならば、それは他者による措定を前提にしなければならない経験である。三島が自己完結してしまうような読みをしてしまうのは、そうした経験を最初から閉ざしてしまうからである。例えば、三島の戦争体験に関する回想は経験することを初めから閉鎖しているように見受けられる。第二次世界大戦とその敗戦を体験した日本の近代作家のその対処の形態を考察することは重要な意味がある。と言うのも、戦争と敗戦の経験がそのままで終わらず、彼らの文学・思想において決定的な影響となって表われるからである。戦争の経験を戦争責任の問題に限定する必要はない。戦争や敗戦によって、彼らの抱いていた現実認識・自己認識はいかに変わっていったのか、あるいは敗戦によって、彼らは断ち切られた時間をどうしたのか、彼らは自らの生の連続性や一貫性の根拠をどこに、またいかに求めたらよいと思ったのかは、生の過程としてだけでなく、彼らの文学・思想の軌跡として認められる。例えば、大岡昇平の場合、戦争体験をどう処理するかが彼の文学の根底にあるし、吉本隆明では、敗戦は吉本に劇的な内的変化をもたらし、それが自らの思想の出発点となっている。しかしながら、三島由紀夫においては、大岡昇平や吉本と比べて、戦争や敗戦は決して彼の現実認識・自己認識を根底からゆるがし、決定的にくつがえすまでにはいたらなかった。むしろ、敗戦は彼に対して本質的な影響を与えず、彼のすでに抱いていた認識を確認させ、強固にしたにすぎない。

 三島は、『重症者の兇器』において、自分の戦争体験を次のように回想している。

 戦争は私たちが小学生の時からはじまっていた。新聞というものは戦争の記事しか載っていないものだと思っていたので、ある朝学校へ行って「アベのオサダ! アベのオサダ!」と皆が騒いでいるのを聞いても何のことかわからなかった。中学に入ると匆々、教練の時間が二倍になった。そのうちに、ゲートルを巻かなければ校門をくぐれないようになった。銃剣術も日課の一つであった。成長しきらないわれわれの声帯から、あの銃剣を突き出すときの「ギャッ」という掛け声が発せられても、嗜虐的であるべき「ギャッ」が青くさい被虐的な「ギャッ」になってしまうので、校庭には異様な凄惨な雰囲気が漂った。

 これから見ても、われわれの世代を「傷ついた世代」と呼ぶことは誤りである。虚無のどす黒い膿をしたたらす傷口を精神の上に与えられるためには、もう少し退屈な時代に生きなければならない。退屈がなければ、心の痍傷は存在しない。戦争は私たちに精神の傷を与えはしなかった。

 のみならず私たちの皮膚を強靭にした。面の皮もだが、おしなべて私たちの皮膚だけを強靭にした。傷つかぬ魂が強靭な皮膚に包まれているのである。不死身に似ている。縁日の見世物に出てくる行者のように、胸や手足に刀を刺しても血が流れない。些細な傷にも血を流す人々は、われわれを冷血漢と罵りながら、決して自殺が出来ない不死身者の不幸については考えてみようともしない。「生の不安」という慰めをもたぬこの魂の珍奇な不幸を理会しない。

 −−私は自分の文学の存在理由ともいうべきものをたずねるために、この一文を書きはじめたのではなかったか。しかしすでにその半ばを、私は自分の世代の釈明に費やして来た。それは私が、文学が環境の産物であるという学説を尊奉しているためではない。ただ何らかの意味で私たちが、成長期をその中に送った戦争時代から、時代に擬すべき私たちの兇器をつくりだして来たということを言いたかったのだ。丁度若き強盗諸君が、今の商売の元手であるピストルを、軍隊からかっさらって来たように。そして彼らが自分たちの生活をこの一挺のピストルに託していように、私たち自身の文学をこの不法の兇器に託する他ないであろうから。

 三島は、大岡昇平などと違って、兵士として戦争に参加していたのではなかった。三島は、戦時中、勤労動員され、徴用工員だった台湾高砂族の少年の世話係りをしていた。戦争は「自分の世代」に「精神の傷」を与えることなく、逆に、その「皮膚を強靭」にし、それに包まれ、「傷つかぬ魂」を自分たちに持たせたという三島のシニカルな見解には、何の新たな自己発見もない。三島は、なるほど、「自分の世代」の実態を明確につかんでいるかもしれないが、しかし、他の世代と比べて「自分の世代」がそうだとすれば、こうした自己に対する不快感や愕然とするような驚きがひそんでいなければならない。言い換えるならば、「自分の世代」が戦争によって何も精神の傷を与えられなかったと自己規定するとき、そこに傷つかないことに対する自己発見的な経験が表われてこなければならないのである。三島が批評について語ったことは彼自身の批評そのものに適用される。三島はただ「自分の世代」を「些細な傷にも血を流す人々」はわかってくれないと言っているだけであり、他の世代からの無理解な認識を代償にして、自己規定の安定性を手にいれ、「自分の世代」とはこんなもんだと鼻で笑いながら、開き直っているにすぎない。

 戦争や敗戦は、言うまでもなく、当時の人々に何らかのショックやインパクトを与えたのであって、文学者だけが特別の経験をしてきたわけではない。彼らの描く経験は特殊なものではなく、むしろ些細なものである。体験談に限って言えば、文学者よりも、情報統制の下での天気予報官のもののほうが興味深い。だが、経験が外的に些細に見えるか否かは問題ではない。些細なものから何か確固たるものいかにを汲み出すのが思想や文学の行為でもある。従って、戦争や敗戦の同時代的な経験に何らかの意義があるわけではなく、それにいかに対処したのか、すなわちその対処の仕方によって何を得て何を失ったのかということがその人の文学・思想そのものをいかに規定しているのかを考察することが重要なのだ。自己分析がいかに自己認識・現実認識を規定していくのかということは敗戦に限定すべきことではなく、いかなる同時代的な経験、いや経験全般においても言えることである。

 従って、三島が「傷つかぬ魂」と「強靭な皮膚」を持ったのは、彼自身が主張するような世代的な問題ではなくて、経験をしないための個人的な心的自己防衛の結果である。三島にとって、戦争は自己認識を変革するまでの深刻かつ劇的な内面変化をもたらさなかったが、それは彼にまず固定観念があり、再認識されているからである。三島には、これから何度も言及することになるが、いかにという問いやプロセスに関する関心が欠如している。三島の認識は再構築されることなく、現実を代償にして、これまでの自己規定の安定的な殻に自己完結的に自閉したにすぎない。

 確かに、文学作品は書き手の書くという行為を通して表現となる。だが、それだけでは十分ではない。作品に書かれた表現は遠慮会釈ない他者に読まれて初めて真に表現として成立するのである。同様に、いかなる作品も完結を持つが、しかし、それは書き手にとってのみあるもので、読み手には完結というものはない。作品は読み手の視線とその想像によって初めて真に完結するのである。

 三島が少年時代に憧れていた夭折がこうした真の完結性を端的に示している。書き手は残された作品という事実によって想像されるほかない。ところが、夭折が置いていくのは事実ではなく、定量的・定性的な批評によっても明らかにされない可能性というものである。文学的価値は何歳で何を書いたかによって決まるわけではない。書かれた作品それ自体によって決まるのである。今日、レーモン・ラディゲの小説−−『肉体の悪魔』にしろ『ドルジェル伯の舞踏会』にしろ−−は十代の少年が書いたという条件を抜きにすれば、ドストエフスキーやマルセル・プルースト、ジェームズ・ジョイスの小説とは文学的価値において比較にならない。例えば、彼らの作品は歴史の中で大きな分岐点になっているのに対して、ラディゲの作品には歴史的な影響はほとんどないのだ、ラディゲの名が上がるのは、残した作品に関してではなく、その夭折によってである。夭折したものは読み手に賞賛を喚起するのではなく、想像力をかきたてる。それは実現されなかった明日についての想像である。と言うのも、夭折したものは自ら自分の文学的才能に見切りをつけて諦めたのではなく、明日を信じ、何かを成し遂げようとしたにもかかわらず、それを死によって断念させられたからである。夭折したものは文学史にない、読み手が想像するほかない優れた作品を書いたかもしれないという可能性を、書かれなかった作品を残していく。言うまでもなく、それは夭折に限らない。漱石があと何年かだけでも生きて『明暗』を完成していたなら、読み手はこうした想像をめぐらす。それは不在の存在という伝説の生まれる瞬間でもあるだろう。

 三島の『葉隠入門』におけるラディゲをめぐる次のような回想は、真の完結性とは逆の彼の自己完結性をはっきりと示している。

 わたしの少年期は戦争時代に過ごされた。わたしにとってもっとも当時強烈な本は、レーモン・ラディゲの「ドルジェル伯の舞踏会」であった。「ドルジェル伯の舞踏会」は古典的な傑作で、いまやフランスでも“ラディゲはすでにパンテオンにはいった”といわれている。その作品の芸術的価値に疑いはないが、当時のわたしは半ば不純な読み方をしていたといえる。なぜなら、天才ラディゲは二十歳で死に、そのような傑作を残したので、わたしも二十歳でおそらく戦争で死ぬことになるであろう自分を、ラディゲの像に仮託して、なんとかラディゲを自分のライバルにして、追いつこうとする目標にこの小説を利用していたのである。したがって文学的嗜好が変わり、自分が思いがけず生きのびて戦後の時代に暮らすようになると、おのずからレーモン・ラディゲの本の魅惑はうすれた。

 ここの三島の論理は逆立ちしている。夭折という自己完結的でないものが、自己完結的になっているのである。ラディゲは結果として二十歳で死んだのであって、二十歳で死ぬことが前提としてあったわけではない。ところが、三島にとっては二十歳で死ぬことが前提となっている。これは、言うまでもなく、この段階では、孤独で、少々自意識過剰な少年が、自らの現実的無力感による虚しさを、同年代で彼の憧れる世界から認められた文学者に投影することによって、特権的存在として自己を認知しようとする倒錯的なかわいい夢想である。

 しかも、その「死の想念」は戦争が与えたのでは、実はなく、「想念」のほうが先にあったと、三島は、『小説家の休暇』において、次のように言っている。

 少年時代から青年期のはじめにかけて、私はいつも死の想念と顔をつき合わせていたような気がする。どうして死が、急に私の脳裡から遠ざかってしまったのであろうか。

 私は恩籠を信じていて、むやみに二十歳で死ぬように思い込んでいた。二十歳をすぎてからも、この考えがしばらく糸を引いた。しかし今では、恩籠や奇跡も一切信じなくなったので、死の観念が私から遠のいた。いよいよ生きなければならぬと決心したときの私の絶望と幻滅は、二十四歳の青年の、誰もが味わうようなものだった。青年の自殺の多くは、少年時代の死に関するはげしい虚栄心の残像である。絶望から人はむやみに死ぬものではない。(略)

 世間の俗人のように、いつか多忙と生徒を混同しながら、一方、私の死の欲求には、ますます現実離れのした、子供らしい夢想がからまるにまかせた。

 三島は前もって抱いていた「死の想念」を戦争という時代に結びつけてしまったのであって、三島の「死の想念」は戦争の行われている時代が直接的に与えたものではなかった。幼年時代そして少年時代を通じて、三島は死に対する異常とも言える敏感な感受性を持っていた。自分自身が血に塗れて死んでいくもしくは殺されていくような妄想にたゆたっている記述が、『仮面の告白』の前半には、多数登場してくる。三島は、日常生活を感じぬまま、そうした幻影に浸っている子供だったのである。英雄は勝利者ではなく、犠牲者でなければならないというわけだ。犠牲者はたんなる敗北者ではない。犠牲者は、生き残ったものにとって、実際の敗北を憤りと憐れみの感情によって、心理的な勝利者となる倒錯を秘めている存在である。彼は、『仮面の告白』において、「戦争が勝とうと負けようと、そんなことは私にはどうでもよかったのだ。私はただ生れ変りたかったのだ」、と述べている。戦争は自分の周囲の現実的な勝者も敗者である自分自身も平等に死に連れていく。そして、いかに卑小な自分自身であっても、戦争で犠牲者となれば、武勇のものに列せられる。つまり、三島は戦争を現実ではなく、ロマン主義的な死と再生の想念と結びつけたのである。

 三島は二十歳で死ぬという結論に向けられて、すべてをその目的論上の必然的な要素として扱っているだけであり、ラディゲはただ二十歳で死んだということのために任意に選びとられたにすぎない。二十歳で死ななかったことによって、ラディゲの本を読まなくなったということはもはやその前提の必然性を貫くための要素ではなくなったからである。時間を限定し、終わりに向けられた意図によって貫かれているのなら、いかに再生が叫ばれていたとしても、始原と帰結の間のプロセスはないに等しく、それらは潜在的に同一である。むしろ、完結が終焉というよりも出発としてある。つまり、三島の論理は円環構造を持っており、それは最初から完結しているのである。

 三島の作品が自己完結的で読み手とのコミュニケーションを拒んでいるのは、実は、終わりの部分だけに限ったことではない。

 三島の小説を開くと次のような記述が目に飛びこんでくる。

 私は蒼ざめた。私の裸体がその白けた鳥肌に、一種の寒さに似た悔いを知るのだった。私はうつろな目つきで、自分のかぼそい二の腕にある、みじめな種痘の痕をこすった。私の名が呼ばれた。体重計が、ちょうど私の刑執行の時刻を告げ顔の絞首台のようにみえた。

(『仮面の告白』)

 しかし突然、死のような仮睡に落ちた女の、枕もとの明りに丸く照らされた乳房の明るみの上では、蠅も亦、急に眠りに落ちたかのように動かなかった。

(『金閣寺』)

 私はたしかに生きるために金閣を焼こうとしているのだが、私のしていることは死の準備に似ている。自殺を決意した童貞の男が、その前に廓へ行くように、私も廓へ行くのである。安心するがいい。こういう男の行為は一つの書式に署名するようなもので、童貞を失っても、彼は決して「ちがう人間」などになりはしない。(同)

 唇に戻って、唇を軽く圧し、自分の唇をその唇の上に軽い舟のたゆたいのように揺れ動かした。目を閉じると、世界が揺籃のようになった。

(『音楽』)

 してみると、そのディスクの音楽が終ったのは、私の記憶が遡ることもできないほど遠い昔であるように思われる。音楽はずっと昔に死んでしまっているのだ。

(『憂国』)

 −−性的な好奇心からまったく自由だったら、どんなに自分の形而上学的な悪意は完全になるだろう。透は家庭教師を馘にしたようには、すべては容易に運ばないことを知った。しかしどこまで愛されても、心に冷たいものを保つことには自信があった。それこそは自分の内のあの宇宙的な濃藍の領域だった。

(『天人五衰』)

 膝頭が腫物のように露われている。この醜さを見て自若としていられるには、どれだけ永い自己欺瞞の年数が役立っていることだろう。しかし本多は、もし若いとき美しかった男が老年に及んでこうなったらさこそと思うにつけ、そういう人間に対する心ゆくばかりの憫笑で自分を救った。

(同)

 こうした比喩や説明が三島の作品にはあふれている。これらは、先の終わりをめぐる部分の引用でもわれわれは強調したが、文学的表現とはとても見なせない。やたら形容詞や副詞が多く、内容的には何もない大日本帝国の軍隊の報告書なみである。こうした大袈裟な比喩や説明から読み手は何も了解できない。これらは言葉を粗末に扱っている典型的文章であろう。こんな書き方をする小説家の作品が中村光夫からマイナス百二十点と採点されても仕方のないことだ。こうした比喩は概念としても不明確であり、文章を不必要に飾り、はぐらかしているという印象しか読み手に与えないのである。

 この引用部分に限らず、三島は比喩を多用するが、概念として非常に不明確で、イメージを喚起させない。小林秀雄は、『美のかたち』において、三島の『金閣寺』には対他関係や社会的関係に関する具体的な記述がほとんど見られないため、それは厳密な意味においては小説ではなく、「抒情詩」であると述べている。この場合の「抒情詩」は、三島と同様にアイロニーを高く評価するジョルジ・ルカーチの『小説の理論』で論じられているように、「先見的な故郷喪失の表現」である小説に対して、「それ自体において完結した生の総体性を形象化」する形式を意味している。しかし、『金閣寺』が「抒情詩」的であるのはあくまで形式上のことである。読み手とのコミュニケーションを拒んでいる三島の比喩は詩的ではない。キーツやヘルダーリン、ニーチェ、イエーツ、宮沢賢治などの場合のように、詩は十分に思索的であり、詩は思索の飛躍であっても、思索の逃避ではない。詩が青少年に好まれる文学様式であるのは、散文と詩の二つの要素を持っている『コーラン』を読めば明らかになるように、それが具体的対他・対社会的関係、あるいは法的な体系ではなく、死や美など抽象的問題系につながるからである。彼らの生き難さが詩を要求するものであるけれども、この文学様式は恣意的ではなく、やはりその内容が要求する形式や法があるのだ。比喩とは、それを用いることによって、認識や理解、思考を活性化するものであるが、三島の作品においては、まったく逆に、比喩が登場してくると、何を指し示しているのかが不明確になってくるのである。

 それでは三島の比喩は絵画的に、すなわち視覚的に用いられているのかといえば、そうでもないのだ。言うまでもなく、絵画と詩的表現は必ずしも相反しない。例えば、ウィリアム・ブレイクのように、詩人でもあり画家でもある芸術家は存在してきた。しかし、三島の比喩は視覚的描写は不十分であり、それは絵画を感じさせない。と言うのも、絵画はどんなにアブストラクトされたり、デフォルメされたとしても、現実的な対象やイメージを必要とするからである。

 三島は、『小説家の休暇』において、自分の文学をアレゴリーだと呼んでいる。確かに、三島の作品は一義的なシンボルではないだろう。しかし、それはアレゴリーでもない。と言うのも、アレゴリーの持つ特質は多義性であって、不明確ではないからである。そして、三島の作品は、後に述べるように、アレゴリーの基本的特性、すなわち伝聞・推定を保持していない。

 三島がこうした概念的に不明確な比喩を用いるのは、彼の詩や比喩に関する認識に問題があるように思われる。

 三島は詩人に関する認識を、『詩を書く少年』において、次のように述べている。

 少年は大きな目をみひらいて、まじまじとRの姿を眺めた。「ここに恋に悩んでいる人がいるんだ。僕ははじめて恋愛というものを目の前に見ている」とまれ、それは大して美しい眺めではなかった。どちらかというと不快な眺めに近かった。(略)

 Rの恋はたしかに本当の恋であった。天才の決してしてはならない恋であった。Rは藤壺と源氏の恋、ペレアスとメリザンドの恋、トリスタンとイゾルデの恋、クレェヴの奥方とヌムウル公の恋、その他さまざまの道ならぬ恋を例証にあげて自分の苦悩を飾った。

 少年はききながら彼の告白に何一つ未知の要素がないことに愕いた。すべては書かれ、すべては予感され、すべては復習されていた。書かれた恋のほうがずっと生々している詩に歌われた恋のほうがずっと美しい。Rがそれ以上の夢を見るために、現実の中へ出ていったことは解せなかった。凡庸への欲求がどうして生まれるのかわからなかったのである。(略)

 −−そのとき少年は何かに目ざめたのである。恋愛とか人生とかの認識のうちに必ず入ってく滑稽な夾雑物、それなしには人生や恋のさなかを生きられないような滑稽な夾雑物を見たのである。すなわち自分のおでこを美しいと思い込むこと。

 もっと観念的にではあるが、少年も亦、似たような思い込みを抱いて、人生を生きつつあるのかもしれない。ひょっとすると、僕も生きているのかもしれない。この考えにはぞっとするようなものがあった。(略)

 『僕もいつか詩を書かないようになるかもしれない』と少年は生まれてはじめて思った。しかし自分が詩人ではなかったことに気が附くまでにはまだ距離があった。

 三島には詩人は生きながらに死者の眼を持つものとして理解されている。確かに、三島は詩人ではないけれども、生きているから、自らはほんものの詩人ではないとする自覚は錯誤にほかならない。こうした認識そのものが、むしろ、死んだ者の眼なのだ。生者と死者との間のコミュニケーションは不可能である。三島は死者と見なしている自分自身とコミュニケーションできていないのだ。三島が読み手という他者を信じることができないのは、ダイアローグ不能な自己をそうすることができないからである。三島にとって、詩とは形式的構成の中で類推能力を−−質的と言うよりは量的に−−発揮する場である。三島が詩の形式をつかんでいても、概念的に不明確な比喩しか使うことができなかったのは、類推能力そのものが重要視されるため、その対象とイメージの関係は最初から眼中になかったからなのだ。

 実際、『詩を書く少年』の頃、学習院の内部で評判になっていた三島の詩は、形式においては、すでにうまくできている。三島が十五歳のときに書いた詩の中の一つ、『凶ごと』は次のような詩である。

私は夕な夕な

窓に立ち椿事を待った

凶変のだう悪な砂塵が

夜の虹のやうに町並みの

むこうからおしよせてくるのを

 十代でこれほどうまく構成した詩をつくることはなかなかできるものではない。しかし、それらはたんなる言葉の羅列の域を出ず、内容的にはまったく何もない。例えば、「凶変のだう悪」とは何かしらの行為を指し示さなければならない言葉であり、その行為そのものを書かずにその言葉だけ露出させるのは、書き手が主題や問題の氷山の一角を比喩として表わすためではなく、それらを隠蔽するため、もしくはそこから逃避するために用いたということである。こうした比喩は大仰ではあるが、結局のところ、自分の文学的資質がブッキッシュだと告げている以外、何も言っていない。「わたしにも、このさわがしい雄弁を慎むべき理由がある。こうした雄弁は、明瞭さをそなえた虚偽の光明によって、われわれを欺くものだ。わたし自身、自分は救いようのない不幸のうちにあると、何度自分に向かって証拠立てたことだろう。(略)われわれにはだれしもこういう奇怪な愚かしさがあるものだ。そして一年も立つと、それを大笑いするのである。そこから、わたしは次のことを銘記した。涙、すすり泣きの寸前、胃袋、心臓、腹、激しい身ぶり、筋肉のひっつりなどが推理のなかにまぎれこむや否や、情念はわれわれを欺くものだ、と。素朴な人たちは何度でもこの罠にひっかかる。しかしわたしは、このまちがった光明が間もなく消えることを知っている。わたしはただちに消したいのだ。それはわたしにできる。自分が大げさな言辞を弄さなければいいのだ。私は自分の声が自分に対してどんなに強い影響を与えるか、よく知っている。だから、わたしは自分自身に対して、悲劇俳優としてではなく、ただありのままに話したいのだ」(アラン『大げさな言辞』)。「美しい」と書き、それを、骨董品鑑定のように、認定することが詩人のすることではないのである。「美しさとは悲しいことだ」としたら、その理由を書くことから詩人は始めなければならない。この詩は詩人としてよりも、制作者が大蔵官僚を目標とする将来に向かったほうがよいとわれわれに思わせずにはいられないだろう。

 確かに、比喩的表現はまだしも、三島の作品は、全般的に、その見事な形式的構成において、全体的に一つの強い統制的・統一的意図によってつらぬかれており、その背後に存在していると考えられるのは、一つの主体であると同時に一つの主題である。その規則正しく綿密な構成はファシズム的とも呼べる幾何学的構造であり、それはあたかも形式的構成こそがすべてであると言わんばかりなのだ。この場合の幾何学は、古代ギリシア的ではなく、デカルト以降の解析幾何学的である。その意味において、三島の作品は絵画的と言うよりは、むしろ、はるかに音楽的であると見受けられる。

 しかしながら、福田恒存は三島由紀夫の作品は「音楽ではなくオルゴルだ」と、『「仮面の告白」について』において、次のように述べている。

 かれの作品は美しい音にみちている。が、いかにも不安定だ−−それはオルゴルの気まぐれ。読者は、かれが自分の気まぐれにしたがって、興ふかげに、そしていくぶんたいくつそうにそれをゆりうごかしているのに聴きほれる。が、それは音楽の与える喜びとはあきらかにべつなものなのだ。

 音楽はひとつの必然によってつらぬかれ、安定したリズムとメロディーによってみちびかれている。だからわれわれは容易にそれに乗じて、ひとつの主題の展開に参与し、聴手もまた創造の喜びをわかちうる。が、オルゴルは気まぐれで不安定で、つぎの展開にどんな音が出てくるのか見当もつかない。そのくせ、そこではどんな偶然もわれわれを驚かせない。オルゴルの音はつねにあまりにオルゴル的で、夢幻的な華麗という限定詞に背くことはけっしてありえないのである。それは美しく楽しいが、どこまでいってもおなじことだ−−完結はない。三島由紀夫の作品の特徴である。

 いちおうそういえる。が、それはいちおうだけの話である。かれの作品はオルゴルではなくて、りっぱな音楽なのである。

 形式的な構成に関しては音楽を思わせるが、それは不安定で、イメージを喚起し「創造の喜びをわかちうる」ことがないとすれば、それは音楽とは呼べないだろう。そうしたものは「苦しい」「オルゴル」の音色、すなわち「完結」のない「不安定」な音の羅列である。つまり、三島が卓越しているのはその類推能力であるが、その類推が何かを活性することなく、または何かをイメージさせることなく、からくりの「オルゴル」のように、たた言葉の羅列に終わってしまう。「手品」を「手品」としてではなく、超能力だと言ってしまおうとする「苦しさ」がある。三島は読み手に何かをイメージさせるという自由を与えようとはしない。読み手を拒絶した自己完結的な作品はそのものか死を迎えているのである。

 その「オルゴル」的な三島に『音楽』という小説がある。少女期の兄との近親相姦により、オルガスムを味わった麗子は、兄の肉体への憧憬をこころに育ててしまい、許婚者にも恋人に対しても不感症に陥ってしまうということを治療した精神分析医の手記として書かれているが、ここでは音楽がオルガスムの比喩として理解されている。

 こうした音楽に関する理解はサルトルの想像力理論やその応用の『嘔吐』を思い起こさせる。すなわち、それは、非造型芸術である音楽という芸術形式は想像力と知覚の拮抗において想像力に力点が置かれ、演奏においても、歌うことにおいても、聴くことにおいても、根本的には想像力の優位は同じであるという統一的な理論である。

 このような想像力理論に近接した『音楽』において、三島は、一見したところでは、音楽を聞くことからとらえているかのように見えるが、実は、音楽を見ることとしてとらえているのである。と言うのも、音楽をオルガスムという実体化=形象化しているからである。三島のこういう音楽に関する把握は必ずしも見当はずれではない。目はまぶたによって簡単に閉じることができるが、耳は閉じることはできない。つまり、聞くということは客観的であることと、そして見ることは意識の主観性と切り離すことはできないのである。心理とは主体性のことであり、主体性の確立は、文学においては、視覚的描写となって表われる。シンボルが見る形式であるのに対して、近代以前のアレゴリーは聞く物語である。三島の作品がアレゴリーではないのは、それが見る態度に基づいていることからはっきりしよう。主体性が問われ始める近代以前の文学は近代文学に比べて視覚的描写が少ない。心理的解釈と視覚的描写は、スタンダールの例を見るまでもなく、比例する。見る=自己意識=主観性=能動性と聞く=他者意識=客観性=受動性が拮抗するのである。見ると言っても、先に絵画的ではないと指摘したように、新たな風景を提示するのではなく、イメージできないおそらくはキッチュな描写にすぎない。

 しかし、三島の理解している精神分析はかなり図式的であり、フロイトの持つ本質的な断層の部分をまったくつかんでいないか、意図的に無視している。『音楽』には患者の精神分析医に対して抵抗する記述が多く描かれ、その時々に、三島は得意満面になって精神分析批判を繰り広げているが、それはフロイトと言うよりも、むしろサルトルやフロムの精神分析である。実際、サルトルも、劇作家としてはすぐれていた三島と同様、理論的哲学と言うよりは、『ボードレール』などの心理的手法を用いた評伝や『蠅』や『自由への道』といった演劇という方面で力量を発揮している。

 フロイトは、『精神分析入門』において、精神分析の置かれている立場を次のように述べている。

 われわれは病人の心中で起こったことを理解することはできますが、しかし、それを患者自身に理解させる手段はもっていません。(略)だからといって、このような症例の分析は、結局実りのないものだから非難すべきものだとみなさんは主張なさるでしょうか。私はそうは思いません。われわれには、直接の効用を考慮しないで研究を行う権利、いや、義務があるのです。最後には−−いつ、どこでかはわかりませんが−−、知識のばらばらな断片の一つひとつが変じてかならず一個の力に、従って治癒能力になるときがくるでありましょう。(略)われわれが研究材料にして学びたいと思う人間は生き物であり、自分自身の意志をもっていますので、研究の仕事に協力するにはそれだけの動機が必要となりますから、もし精神分析が無力だとわかれば、きっとわれわれを拒むと思います。

 フロイトの呟きはたんなる謙遜にとどまらない強い「意志」の響きがある。彼は三島のようなアイロニーを発することはない。「病人の心中で起こったことを理解すること」はできるが、しかし、「それを患者自身に理解させる手段」は持っていないと、フロイトは自分自身の無力さを認めた上で、そして無力だという非難を甘んじて受けた上で、孤立を強いられながらも、何かを確信している。フロイトはあるがままを認め、一切の可能性を探って現実へ働きかけ、そこで表われでた結果を、悦楽だけでなく苦悩をも含めて、肯定し、感受する。精神分析は、差し引きなしに、世界を愛するものなのだ。精神分析は、現在の精神分析家はまったく逆であるが、ルサンチマンからほど遠い。フロイトをそうした衝迫に動かすのは、いったい何だろうか。フロイトの精神分析にはこうした謎とともに生きるように強いるものがある。三島はこういうフロイトが残した謎の部分を見ようとせず、ただ文学的解釈や文学的観念を提示しているにすぎない。つまり、フロイトが現実から精神分析をとらえているのに対して、三島は精神分析から現実を見ているのである。フロイトにとって、精神分析はたんなる学術的方法論ではなく、彼の生そのものにほかならない。「営々孜々として破壊作業に従事するか、それとも対象から遠く隔たって天空高く高桜を建てるかしてしまう」というのは三島のこういううす寒い態度を指すのである。だいたい、フロイトは、『精神分析入門』の中の「解明・応用・方向づけ」において、小説などに用いられている精神分析に対して詳しく批判している。三島の素朴な批判程度のことをフロイトはすでに承知しているのだ。フロイトの仕事はマルクスを補足するものであるのに、三島はフロイトとマルクスを対立させている。「フロイトはマルクスの仕事を補いながら、歴史家に向って、自分自身を、歴史における自分の地位を、また、彼のテーマや時期の選択、事実の選択や解釈を導いて来た動機−−恐らくは、隠れた動機−−を、彼の視覚を決定している国家的社会的背景を、彼の過去観を形作っている未来観などを吟味することを勧めて来たのです」(E・H・カー『歴史とは何か』)。これでサルトルが、『存在と無』において、精神分析には「未来」の次元が存在しないと批判したことがまったくの見当はずれであることは明らかであろう。今日に至るまで精神分析的小説の名で呼べるのは、フロイトその人が「歴史小説」として書いた『人間モーゼと一神教』が唯一だと言っても過言ではない。

 そもそも『音楽』には三島が言うような「女性の性の問題に関する、徹底的に無遠慮な、科学者的な取扱いの態度」などからは遠く、まだまだ不必要な修飾が多すぎるのだ。

 『音楽』において、次のような記述が見られる。

 服装も一種の症候行為である。内心の欲求を隠し、かつ表現する。私はこの白粉気のない顔、この喪服に、彼女のよろこびをしか見なかった。

 「私は……をしか見なかった」というこうした見方はたんなる軽蔑であって、「徹底的に無遠慮な、科学者的な取扱いの態度」ではない。もしほんとうにそうであるならば、本来、この感情レヴェルにある字句は「であるように思われた」とするか、さもなければ削られていなければならないのである。われわれは、この文章から、高見から人を冷笑する三島の「よろこびをしか見なかった」。無機質とも言うべき禁欲的文体は三島のごときシニックにはできっこないのだ。

 三島の想像力は類推能力そのものとして機能するため、三島の感ずるエロティシズムは、母子関係のような、直接性からは喚起されない。三島が太宰治を嫌悪しているのは、太宰が受動的であるからではなく、『小説家の休暇』において「どうして日本の或る種の小説家は、作中人物たらんとする奇妙な衝動にかられるのであろうか」と述べているように、作者(行為者)と作品(行為)が直接的に結びつき、たあいもない直接性に関わる現実の苦悩を作品の中で叫んでいるからである。もっともいくつかの三島の作品にもそういう傾向があるけれども。三島は少年時代谷崎潤一郎の小説を愛読していたが、谷崎の小説においては、作者と作品が直接結びつくようなことなく、とことん作者の変容として表われるからである。

 三島は、『谷崎潤一郎論』において、谷崎の文学を次のように評価している。

 究理的で献身的なサディストである代わりにわがままで意地悪なマゾヒストであることを、自分の文学的主題とした谷崎氏は、理論的には小説としてもっとも描きにくいこの主題を、逆用してもっとも有利な武器にしたのであった。現実を変要させて、自分の好むがままの形を現実にとらせ、そこへ自分の内面を投射して(自分は何の責任も問われずに)、対象をわがままで意地悪な存在だと夢みること。このエゴイスティックな没我と陶酔の一筋道を、氏はわき目もふらずに歩みつづけた。それは文学における反批評的なものの極致である。(略)

 谷崎氏にとって、究理的な人々にとってはあれほど困難な美は、いとも容易な問題だった。美を実現するには、現実を変容させればそれでいいのだ。そしていったん美が実現されたら、その前に拝聴して、その足を押しいただけばよいのだ。その上、さらに微妙な、さらに狡猾なメカニズムがこれに加わる。すなわち美に現実性を与えるためには、人形師が自ら作った人形にわが息を吹き込んで生命を与えるように、その美に対して自分の「わがままと意地悪」を賦与すればよいのであるが、同時に、相手のものとなった「わがままと意地悪」が、正にその属性に従って、相手から自分を遠ざけ、焦燥と錯乱をもたらし、かくて美にとって一等大切な要素である「不可測な距離」をも確保させることになるのである。

 (略)青年時代の氏は世紀末思潮や、キリスト教的道徳観の二元論や、いろんなものにわずらわされて、美の客体としての攻撃的な女体と、美の創造者としての被虐的な主体とを、正当に拮抗させるだけの状況を発見しえなかった。谷崎文学がいつも一面、状況の文学の性質を帯びるのは、主題の模索の代わりに状況の模索が、つねに制作の緊張を支えてきたからである。主題はむしろ容易であり、最初に発見されており、模索の必要はなかった。問題は状況の設定であり、夢がつぎつぎとその状況をむしばんで、完璧な状況の実現の彼方に置くのであった。そしてすべてのエロティシズムは、かかる状況の不可能にかかっているのではなかろうか? 芸術のエロティシズムに対する最終的な勝利は、状況の創造にあるのではなかろうか?

 (略)氏の自意識は登場人物のイメージに過不足なく密着し、自意識自体がふわふわと自己増殖をしてついに「かく見える自分」と「かくある自分」との、悲劇的な乖離へ導くような現象は起こらなかった。

 三島の谷崎の文学に対する読解は、他の彼の批評と同じように、対象以上に、自身の作品を照らし出している。三島の意見をまとめれば次の通りである。谷崎の文学は登場人物と状況が違うだけで、『卍』にしても、『蓼喰う虫』にしても、『細雪』にしても、ほとんど同じような作品構造を持っている。そして、三島も、谷崎と同様、形式的な構成を重視した作家である。三島は、マゾヒストの谷崎と逆に、サディズムにおいて官能を覚えるが、その様態は同じなのだ。現実を書くのではなく、現実を作品において思うがままに変容させ、現実を叩きのめす。ただ違うのは、三島がサディストであるため、「主題」小説を書くのに対して、谷崎はマゾヒストであるため、「状況」小説を書くということだけである。

 サディズムとマゾヒズムは、三島の見解も含めて、一般的にはそれぞれがその反転と思われているようだが、まったく別の動機と異なる意味を持っている。本論では詳しく解説することはできないけれども、サディズムはカントに対するアイロニカルな批判として、マゾヒズムはヘーゲルに対するユーモラスなそれとして登場した。三島と谷崎の類似点以上に差異こそが重要である。三島の官能はあくまで見ること、厳密には、眺めることから生ずるのに対して、谷崎は触ることによって官能を覚える。谷崎と三島の小説家としての力量は比較にならない。われわれは、サディズムよりもはるかに、マゾヒズムを真剣に受けとめる必要がある。サディストの他虐性は自虐性と同一であるのに対して、他虐行為をまったくしないマゾヒストの場合、あくまでも他者との共生が望みなのだ。サディズムはつねにテロリズムとしてわれわれの前に表われる。サディズムの目指すものは破壊であり、それを通した再生である。一方、ザッヘル・マゾッホは晩年トルストイ主義に傾倒した。「暴力による悪に対する無抵抗」を掲げるトルストイ主義はアナーキズムの一種であるが、その中でも、最も荒唐無稽と思われていたにもかかわらず、これに共鳴したマハトマ・ガンジー、さらにマーチン・ルーサー・キングの勇気ある行動が歴史の新たな展開を招く一つの原動力となったように、マゾヒズムは創造を目標とするのだ。

 しかし、「かく見える自分」と「かくある自分」との乖離は何も「悲劇的」ではなく、生の倫理的な条件でもある。その乖離がなかったら、何も文学など書く必要も読む必要もない。それを「悲劇的」と名づけてしまうところに、欠点とも言える三島の文学に対する姿勢がある。そうした短所は三島の作品においては語り手が重要な位置を占めていることが告げている。一般的には、登場人物が経験的な存在であり、語り手はそれを差異化し、解釈する言語的な存在である。この語り手は読み手をこの話の世界にともに生きるように導き入れるためのものであって、登場人物に対してだけでなく、読み手に対しても優位になることはない。と言うのも、登場人物も読み手も語り手にとっては自分と違う他者だからである。ところが、三島の作品の場合は、語り手の説明によって、話は始まり、そして円環構造を経た後終わるが、その間、語り手の優位はいっこうに揺るがないのだ。語り手は落ち着き払って、登場人物や読み手を眺め、その両者を自分の言説に従うように煽っている。語り手が「かく見える自分」と「かくある自分」の乖離を消そうと躍起になっているのである。語り手は作品そのものの持つ説得力のなさをごまかすために、強引で性急な権威づけとして機能しているにすぎない。福田恒存は、『「仮面の告白」について』において、そうした三島の文章を「黒を白といいくるめる文章の苦しさがある」と述べている。三島の作品はどれも形式的な構成だけを見るならば、見事と言うほかない。しかしながら、その枠組みの中身である文章は、権威のレトリックとも言うべき不明確な比喩と不必要な語り手の説明によって埋められているのである。

 ところが、戯曲に目を転ずると、事態は違ってくる。戯曲においては、小説と比べて、文章から視覚的なものを表現する必要がなくなり、小説において突出しすぎている語り手が消失し、登場人物の言葉だけで構成される。三島の戯曲作品では、小説において見られる余分な贅肉が殺げ落ちているのである。従って、三島の作品において文学の名に値するのは、最初からその危険性から逃れている戯曲と一部の批評だけで、それ以外はとても文学とは呼べない。『十日の菊』や『近代能楽集』、『サド侯爵夫人』は近代戯曲史においても傑出しているが、小説の名を付した『仮面の告白』も『潮騒』も『金閣寺』も『豊饒の海』も作文であったとしても、文学の領域に属するものではない。三島の小説を文学として評価した瞬間にそのものは文学を裏切ったことになるのである。日本文学では、三島も含めて、劇作家向きの作家が小説や詩を書き、寺山修司のように、詩人の才能に恵まれながら最も不向きな演劇活動をせざるをえなかったケースが少なくないのは、ほんとうに不幸だと言っていいだろう。平野謙は、対談『戦後文学二十五年』の中で、「昭和文学の特徴はみな資質に反しているといえないこともない」と発言し、「横光利一など資質に反した一典型だと思う。資質に反してああいう新感覚派的な仕事をずっとしてきた。だからこそ彼はなんといっても昭和文学の代表的作家なんですよ」と言っているが、三島もその意味で「昭和文学の代表的作家」である。

 さらに、三島は、『小説家の休暇』において、戯曲について次のように述べている。

 完全な戯曲というものは、小宇宙のようであるべきだ。小説もそうだろう。しかし小説の世界は戯曲のそれほど閉鎖的ではなく、時間の流れも自由であり、その世界のすみずみにまで、一種の宇宙的法則の雛型が支配している必要がない。その逆のあらわれとして、小説では、戯曲におけるほど、偶然を濫用することができない。つまり偶然が必然化されるには、作品を必然的法則がつらぬいていなければならないから。戯曲で、その噂をされていた人物が、都合よく登場したりして不自然でないのは、戯曲のほうが小説よりも、はるかに緊密な必然的法則を、形式上からも、要請されているからである。

 戯曲文学が古代から栄えたのは、理由のないことではない。ギリシアでは、戯曲と彫刻とは同じ理念にて立っていた。自然および自然構造、宇宙および宇宙構造の、忠実な模写の理念なのだ。そこでは芸術の理想は、物の究極の構造に達することだった。

 小説は具体的な対他関係や社会的関係を書かなければならないので、客観的な、すなわちイデオロジカルな領域を扱わなければならないため、それは偶然性をはらんでくる。一方、戯曲においては、小説と比べて、すべての要素が必然的に機能させられる。戯曲には必然性が不可欠であるとすれば、書き手は「主題」を明確にさせられる。「主題」を描くことを意図する三島には戯曲は格好の文学ジャンルであるわけだ。

 ところが、三島自身にとって、戯曲はかなり奇妙な意味を持っているのである。

 三島は、『声』第八号同人雑記において、戯曲を「詩作の代用」だと次のように述べている。

 私は妙な性質で、本職の小説を書くときよりも、戯曲、殊に近代能楽集を書くときのほうが、はるかに大胆率直に告白ができる。

 それは多分、この系列の一幕物が、現在の私にとって、詩作の代用をしているからであろう。

 私は二十代に入ると同時に詩作をやめてしまった。自分が贋物の詩人であることに気がついたからである。しかし戯曲のありがたいことは、戯曲のみがFausse Poesie を許容すると思われることである。

 演劇は詩とならんで、青少年の間で、最も好まれる文学様式である。彼らの演劇世界は経験世界のたんなる再現ではなく、かくあったという現実を「このようにあったならば」という後悔と「こうあるべきだ」という呪いによってすり替えようとするルサンチマンによる転倒された解釈にすぎないのだ。若者のものだけでなく、日本の劇団の多くはこのルサンチマンに満ち溢れている。愛を知らぬ演劇関係者が愛を演じようとしているのだから日本の演劇はほとんど悪質な冗談と言うほかない。詩にしても、演劇にしても、彼らにとっては、素朴な現実否定の道具なのである。戯曲と詩は必ずしも同一視できる文学ジャンルではないのであって、戯曲が「詩作の代用」になるとア・プリオリに了解できるものではない。しかも、先に述べたように、三島の詩は形式的な構成においては十分であるが、不明確で大袈裟な比喩によって覆われとても詩と呼べるものではない。もしかりに戯曲が「詩作の代用」として書かれているとすれば、彼は戯曲も読むに耐えない駄作しか書きえないはずである。それゆえ、小説という比較的形式に問われない分野ではなく、「戯曲、殊に近代能楽集」という形式が強固な分野において「はるかに大胆率直に告白ができる」と述べていることから、三島は形式がはっきりしているものにおいて自己認識ができる、すなわち形式と自己認識が直結すると解釈せざるをえない。従って、この形式と自己認識の直結の側面において、三島にとっては、戯曲が「詩作の代用」となるということになろう。

 三島が作品の形式的な完成に専念することができたのは、一つの「主題」もしくは一つの固定観念の限定された枠組みの中で現実を裁断することができた、すなわち形式的な構成によって現実をカバーしていたからである。先に述べたように、三島は書物から人生を自己確認的に学んでいたため、子供のころから自然に信じてきた自己認識をくつがえすような経験が欠けていた。三島は、カントが『判断力批判』で美的判断は「無関心」でなければならないと主張したように、「関心」を受け入れないようにしていたのである。美は現実的な関心と離れたところにあるというわけだ。彼はアングロ・サクソン的な経験論的思考にはなじめない。本を読み、そこから「考えるヒント」(小林秀雄)を得ることはいっこうに構わないが、それは経験的世界に関する一つの解釈にすぎないのだという自戒は忘れてはならない。三島の読書はつねに一方通行であるが、書物の言わんとすることを受けとめたなら、さらに、このフィクションがいかに構成されてきたのか、また自分はそれをどのように受容したのかというさらなる問いかけが不可欠である。野球にはボールの投げ方があり、サッカーにはボールの蹴り方があるように、本にも読み方がある。自己認識・現実認識を否が応でも覆されてしまった夏目漱石や坂口安吾、武田泰淳らの小説、ニーチェの哲学的著作は形式的な構成は破綻している。また、フロイトにいたっては、日夜続けた研究や記録を発表するだけで、体系的に整理された理論的著作を一度も著さなかった。彼らは形式的な構成によってはもはや示せず、その破綻によってしか表わすことができないものを扱っわざるをえなかったのである。

 そんな三島にも、実は、自己認識がくつがえる経験をする機会は、作家としてデビューする前に、あったのである。

 三島は、『仮面の告白』において、兵役を免除させられたことに関して決定的なことを次のように述べている。

 −−それなら軍隊は理想的ではなかったろうか? それをしも私は軍隊に希っていた のではなかったか? 何だって私はあのようにむきになって軍医に嘘をついたのか? 何だって私は微熱がここ半年続いていると言ったり、肩が凝って仕方がないと言ったり、血痰が出ると言ったり、現にゆうべも寝汗がびっしょり出た(当たり前だ。アスピリンを噛んだのだもの)と言ったりしたのか? 何だって私は、即日帰郷を宣告されたとき、隠すのに骨が折れるほど頬を押して来る微笑の圧力を感じたのか? 何だって私は営門を出るとあんなに駆けたのか? 私は希望を裏切られたのではなかったか? うなだれて、足も萎えて、とぼとぼと歩かなかったのは何事か?

 軍隊の意味する「死」からのがれるに足りるほどの私の生が、行手にそびえていないことがありありとわかるだけに、あれほど私を営門から駆け出させた力の源が、私にはわかりかねた。私はやはり生きていたいのではなかろうか? それもきわめて無意識的に、あの息せ切って防空壕へ駆けこむ瞬間のような生き方で。

 すると突然、私の別の声が、私が一度だって死にたいなどと思ったことはなかった筈だと言い出すのだった。この言葉が羞恥の網目をほどいてみせた。言うもつらいことだが、私は理会した。私が軍隊に希ったものが死だけだというのは偽りだと。私は軍隊生活に何か官能的な期待を抱いていたのだと。そしてこの期待を持続させている力というのも、人だれしもがもつ原始的な呪術の確信、私だけは決して死ぬまいという確信にすぎないのだと。……

 ……しかしながらこの考えは私にとっていかにも好ましからぬものだった。むしろ私は自分を「死」に見捨てられた人間だと感じることのほうが好んだ。死にたい人間が死から拒まれるという奇妙な苦痛を、私は外科医が手術中の内臓を扱うように、微妙な神経を集中して、しかも他人行儀にみつめていることを好んだ。この心の快楽の度合は殆ど邪なものにさえ思われた。

 かつて自分自身がつらい思いをさせられてしまったがゆえに、自分はそうすまい、誠実でいようと決意していたにもかかわらず、その誠実さそのものが自分自身を裏切ってしまう。経験とは、こうした自分の意識が自らを裏ぎらざるをえないような突き放された孤独感の中にある。例えば、漱石の『こころ』や大岡昇平の『俘虜記』はそうしたことをめぐって書かれている。三島は死に親近感を覚えていたにもかかわらず、軍医にでたらめの報告をし兵役免除となり、逃げるように帰ってしまう。経験をするのはまさにこのときであったはずにもかかわらず、芥川龍之介の『羅生門』のエンディングのように、三島はそこから、すなわち逃げてしまったということから逃げてしまった。三島はこの驚きをまったく深化させ、問い尋ねることはなく、自意識の問題にすりかえてしまったのである。「死」に「見捨てられた人間」などはこの世に存在しない。死は「来るものは拒まず、去るものは追わず」をモットーにしている。このとき三島が心理や意識を自己を裏切るものだという認識に達していたなら、彼は、その後、心理的に書くことなどなかったのではなかろうか。三島の心理的な作品に欠けているのは心理の裏切りである。三島は行為を単純に自意識に、すなわち心理に還元してしまったときから、行為の表層のみを相手にするような自意識を扱う作家となったのである。三島の現実認識はフラットで矛盾や欺瞞を抱えるだけのメリハリを持っておらず、三島の作品には、有島武郎の作品に見られるような、登場人物の精神的な成熟がみられず、結論は現実感を欠いたシニカルなアイロニーにとどまっている。夕刊紙のエロ小説なみの三島の作品に対して、小学生の道徳の教科書に載っている有島武郎の『一房の葡萄』は、近代日本文学上、最も官能的な作品の一つである。そこでは視覚的なものはつねに触覚的表現として把握されている。特に、女性教師の容姿に関する描写は官能の一言に尽きる。三島の話は逸脱もせず進み、あたかも結論が先にあるかのようである。発展するきっかけかあるにもかかわらず、素朴極まりない主人公はそのまま素通してしまう。

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